第37回 高次脳機能障害 <高次脳機能障害の老老介護>

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脳外科医から見た高次脳機能障害 特別寄稿

クリニックいわた医師(脳神経外科)
同志社大学非常勤講師(社会福祉学科)
安井 敏裕

第37回 高次脳機能障害 <高次脳機能障害の老老介護>

2021.09.19

最近、「近親殺人 そばにいたから」(石井光太著、新潮社、2021)という本を読みました。ネット上で紹介されていたものですが、そのタイトルと本の帯に書かれていた「殺す方か、殺される方か。次はあなたかもしれないー」というキャッチコピーが気になったからです。この本の著者は親族間で起きた殺人を「近親殺人」と名付けています。日本では年間800~900件の殺人事件が起きていますが、その半数は近親殺人で近年その割合が増加しているそうです。家族の間では「介護放棄」、「引きこもり」、「貧困」、「精神疾患」、「老老介護」、「虐待」など様々な問題がおきます。そして、これらは公的支援を受けて自助努力さえすれば、解決できるほど簡単なものではありません。この本では7つの近親殺人が紹介されていますが、その中に「高次脳機能障害の老老介護」のケースがありましたので紹介します。

事件は2015年1月に千葉県で起きました。加害者は77歳になる元看護師の妻A子、被害者は5歳下のB男です。介護に疲れたA子がB男を包丁で刺し殺してしまった事件です。 この事件は一戸建ての一階で起こりました。同じ家の二階には長男夫婦が事件当日まで同居していましたが、長男夫婦はB男の介護にはほとんど関わらず、A子の追い込まれた状況を理解していませんでした。2009年にB男が脳出血を発症しました。一命は取り留めましたが左半身麻痺が残りました。A子は献身的に介護しB男もそれに応え一時は杖歩行が可能な状態にまで回復しました。 しかし2014年3月に二度目の脳出血が起こり、麻痺は悪化し、新たに高次脳機能障害も合併してしまいました、元来、穏やかな性格であったB男ですが情緒不安定となり、何でもないことでも 感情的になって大声で喚きちらすになりました。B男は自分で1日のスケジュールを細かく決めて、「何時にご飯を出せ」、「何時に歯を磨け」と妻に求め、それがわずかでもズレると激高するようになりました。またゴミが落ちていたり、食器が少しでも汚れていると、手に負えないほど暴れました。前述したように一戸建ての家には長男夫婦が同居しており、B男の介護には医師やケアマネージャーが関わっていました。一見、サポートを受けるには恵まれた環境にあると思われますが、元看護師という立場やプライドもあったのか、A子はあまり周囲に頼ることなく一人で献身的にB男の介護を続けました。しかし77歳のA子は徐々に重度のうつ状態に陥り心身の不調も明らかとなってきました。そして、ついには「死ねば楽になる。しかし、夫を一人残すことはできない」という考えにとらわれるようになり、2015年1月に犯行に及んでしまいました。事件後にA子に関わっていた、医師、ケアマネージャー、長男はそれぞれの立場を反省することになりますが。ケアマネージャーの、「A子が介護放棄できればよかったのかも知れない」は私の心に残りました。

この本の著者は、7つ全ての事件にあてはまる魔法のような解決手段はないが、これらの事件を通して見える重要なポイントを二つあげています。一つ目は事件を起こした当事者は、事件当時には 困難な状況を解決する能力をすでに失ってしまっていると言うことです。本例でもA子はうつ状態となり「希死念慮」、「気力減退」、「無価値観」、「思考や集中力減退」という状況になっていました。二つ目はそれぞれの家庭固有の伏線があると言うことです。本例ではA子は元看護士で医療について他の人達より知っているという自負があり、最後まで自分の手でやり抜こうと思っていた節があります。また、同居していた長男夫婦の冷たい態度にも傷ついていたのではないかと思われます。この本に紹介されている7つの事件は、高次脳機能障害などの自助努力だけではどうにもならない難しい問題を背景に起こっています。すなわち、これら困難な問題を抱え込むと、「近親殺人」はどの家庭にも起こる可能性があると思いました。