第9回 二種類の健忘症

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脳外科医から見た高次脳機能障害 特別寄稿

岩田記念診療所医師
大阪市立大学脳神経外科非常勤講師
安井 敏裕

第9回 二種類の健忘症

2012.09.09

 記憶には過去に起こった出来事の記憶(出来事記憶)、「大化の改新は645年」などの知識の記憶(意味記憶)、自転車の乗り方やピアノの弾き方など、い わゆる「体で覚えている」 記憶(手続き記憶)などがあります。そして、出来事記憶の障害のことを「健忘」と言います。現在、「健忘」に関係した脳の場所は二箇所が知られています。 一つは脳の横(側頭葉)、もう一つは脳の前(前頭葉)です。これらの場所が頭部外傷や脳卒中で傷害されると「健忘」が起こります。

 まず、側頭葉型の「健忘」について述べます。側頭葉、とりわけ内側部の"海馬"と言う部分が出来事記憶の形成や想起(思い出すこと)に重要な役割を果た しています。このことが分かったきっかけは1930年代に、ある脳外科医が行った手術でした。彼は薬で治らない難治性の側頭葉てんかんの患者さんの治療と して両側の海馬を切除しました。この手術の結果、てんかんはよくなったのですが、この患者さんはひどい健忘症になってしまいました。その人は新しく経験し た出来事が全く覚えられません。数分前にしたことをすっかり忘れ、同じ本を何度読んでも毎回面白く、同じゲームを何度繰り返してもいつも面白いと言うあり さまです。ただし、意味記憶は失われず、アメリカの大統領の名前を言ったり、犬とは何かなどの質問には正確に答えられたそうです。

 もうひとつ、非常に特徴的な記憶障害を起こす場所が前頭葉、特にその下部(前頭基底部)です。この部分は脳外傷や前交通動脈瘤破裂によるクモ膜下出血の 際に壊れやすく、独特の健忘症が起こります。ただし、前述した側頭葉型の健忘症とはやや違っています。前頭葉型の記憶障害の特徴は、専門用語で「作話」と 言われる症状です。患者さんにこれこれのことを覚えていますかと尋ねると、すらすらと答えが返ってきますが、その答えは事実ではなく嘘です。しかし、患者 さんは決して嘘をついているつもりはなく、質問に正しく答えようとして、自分では正しい答えと思って答えてくださいます。ただし、内容がチグハグです。た とえば、「富士山に行きましたか?」と聞くと、「1週間前に行きました」という答えが返ってきますが、この患者さんが富士山へ行ったのは実際は10年前だ というような状況です。すなわち、富士山へ行ったという記憶は正しいのですが、時間の順序がでたらめになってしまっています。通常、「出来事記憶」には 「時間の荷札」が付いていると言われています。ところが前頭葉のこの部分が傷害されると、記憶に「時間の荷札」が上手く付かず、バラバラの断片的な記憶に なってしまうようです。側頭葉型の場合は富士山へ行ったという「記憶の断片」そのものが失われているのと明らかに違います。前頭葉型の「健忘」を持った患 者さんの場合には、質問に対して流暢に「作話」しますから、初めて会った人はすっかり騙されてしまうことがあります。